1945.懐かしむ夜

暑い国に僕は来ていた。
蝉がたくさん鳴いていた。
知らない土地、知らない言葉。
同胞は幾人か知人がいたが、絶対数は少ない。
夜は孤独だった。

帰り道に、懐かしい言葉を聞いた。
祖国の言葉だ。
女の声。
道の端で女は猫の相手をしていた。
間違いない。
知っている言葉だ。
しかしおかしいな。
面立ちは、この国の人だ。
僕が恐る恐る声をかけると、彼女は笑顔になった。
「驚いた、こんな所で同郷の人に出会えるなんて!」
近くの公園で国の話をした。
彼女と僕は少し住んでいた所が遠かったが、
同じ国、話は弾んだ。
「私ね、もうすぐ帰らなくちゃいけないんだ。」
うらやましいな。
「ううん、国じゃないの。暗い所。この夜のように暗い所。」
僕はそのときすこし寒気がした。
おかしいな、今日は特に暑い日なのに。
「この体は借り物なの。
…いえ、私のものでもあるけれど、皆のものなの。
次会った時は、きっとあなたのこと、覚えてないわ。
今日のように、偶然でもまた会えたらいいね。」

秋になって、僕が長袖を着始める頃、彼女を見た。
横断歩道の向こうがわに、知らない男性と並んで立っている。
彼女はあの言葉を話してはいなかった。
僕も理解でき始めたこの国の言葉を流暢に喋っている。
やっぱり彼女はこの国の人だと思った。

では僕の会った人は誰だったんだろう。
僕は考えるのをやめた。
信号が青になって僕は横断歩道を歩き始めた。
彼女は僕に気が付かなかった。
きっとそれでいいんだ。

by trash-s | 2012-07-22 23:18 | 久美姉さん